「男の生き様」


 

 俺の名は虎。
 なかなか古風な名前だろう。
 近頃じゃ日本の地に生まれた誇りも捨てた奇抜な名前を喜んで名乗る輩も多いが、俺は違
う。この名に誇りをもっている。  日本という地に生まれた男としての心意気を感じさせる名前だろう。  だから女々しい生き方は決してしないと心に決めている。  男らしく、自分の意思を真っすぐに貫き、過去を引きずって後ろを振り返って嘆くことは
断じて許さない。  俺は前だけを見て、後ろを振り返るような生き方はしない。  後ろを振り返れば、その瞬間から、進むべき道が歪む。  偉人の書いた聖書にもあるだろう。鋤を手に振り返ってはならない。畑の畝を作りながら
振り返れば、その畝は左右に曲がり、美しい真っすぐなものにはならない。  俺の人生も同じだ。決めた一つの道を行くのみだ。  思い返せば、わが人生も波乱の幕開けであった。  まだ生まれたばかりの、へその緒も腹から垂れ下がったような状態で、俺と妹は寒空の下
で捨てられていた。  今となっては確たる記憶も残ってはいないが、日々凍え、他にいた兄弟が次第に冷たく変
わっていくことに恐怖していたことは確かなのだ。  運よく救いの手が差し伸べられ、俺も妹も命を長らえることができた。  住む場所と食い物を与えられた。  そして名前も与えられたのだ。  それが虎だ。  この男らしい名に恥じぬよう、妹を守る兄としての務めを果たし、いつか命を救ってくれ
た命の恩人にも義理を返したい。  それが今の俺の願いだ。  そんな俺でも、大樹がへし折れそうなほどに大風が荒れ狂う、暗雲垂れこめる光景を目に
すると、気分は重く重く心の底へと沈んでいき、日常の中では決して浮かび上がることのな
い感情に揺すぶられることがある。  今この瞬間にも、自分たちが味わったような苦しみを味わっている者たちがいるのではな
いだろうか?  望まれない命として捨てられ、寒さと飢えで体を震わせ、大きな世界に取り残された心細
さに泣き声を上げているかつての自分がいるのかもしれない。  そう思うと、ただじっと窓の外を見て、心配していることしかできないことに自分の存在
意義が揺らぎ、居ても立ってもいられなくなるのだ。  全ての命を救うなどという大業を成し遂げることはできない。  ならばせめて、自分にできる範囲の中で、守れる家族を力の限りの守ろうと思う。  そう心に決めている。    それが男が生きる意味なのだ。  虎という名を背負う俺の責務。  椅子から立ち上がり、隣の部屋へと移動しようとしたとき、廊下でうずくまっている妹を
みつけ、駆け寄った。 「どうした? なにか困ったことでもあるのか?」  妹が一心に見つめているものがあることに気付き、背後からのぞきこむ。  妹が手を伸ばし、床に転がる黒い物体を手の平にのせた。  黒々と光る体をした、6本の節くれだった足。しなりながら長く伸びた触覚。 「ヒーーー!!」  思わず喉の奥から悲鳴がもれた。 「それはダメだ!」  妹の手から不気味に光る毒虫をたたき落とす。  だが妹は、毒虫のどこに好奇心を刺激されるのか、すぐに虫の横に座り込むと、今度は顔
を近づけて匂いを嗅いでいる。 「やめないか。そんなことは女の子のすることでは!」  近づき妹の手を引いた瞬間、勢い余った手の平から虫が宙を飛ぶ。  その虫が俺の顔にへばりつく。 「ギャーーーーー!」  甲殻の冷たさを含んだ体に、奇妙に節くれだった足がうごめ。  虫は苦手なのだ。  何を考えているのか分からない輩だからだ。  攻撃しようとしているのか、逃げようとしているのか、それともそんな高度な知恵もなく
本能の赴くままに歩んでいるだけなのか?  いずれにしろ、虫は排除すべき輩なのだ。  顔に張り付いた虫を払い落し、距離をとる。  抹殺すべし。  だがその瞬間、自分の殺意から虫を守るかのように、妹が間に体を割り込ませる。 「それは俺にまかせろ!」  妹に言い聞かせる。  だが振り返った妹の目は、自分を守ろうとする兄への尊敬、敬愛、感謝のどれでもなかっ
た。  あるのは闘争心、蔑み、憐れみ。  一瞬にして俺から目を反らした妹は、床を這いずる虫を手の平に載せ、次の瞬間、口の中
に放り込んだ。  思わず俺は目をつむった。  それでも音は意思に反して脳内に侵入してくる。  バリバリという甲殻が砕ける音と、羽が口の中に強引に折りたたまれ、薄く張り伸ばされ
たものが裂ける音が耳にささる。    俺は意気消沈した。  妹の奇行を止めることができず、さらには虫ごときに恐怖して逃げ出した自分が情けない。  だが、ここでうずくまって後悔し、自分を否定していては、あまりに後ろ向き過ぎる。  第一ここで振り返れば、床に散る虫の食べにくい肢や触覚が転がっているのを目にするこ
とだろう。  妹の口元をぬぐう姿を目に、怒りに駆られないとも限らない。  俺は後ろを振り向かない男、虎だ。  ここに止まり後悔する生き方ではく、新たな道を選びとっていく。  それが俺の生きざまだ。  次こそ虎の名にふさわしい仕事に向かうべく、身なりを整える。  手で顔を洗い、腹を舐め、虎模様の尻尾を根元から先まで丹念に舐め上げる。  窓の外で小鳥が鳴く。  虫は嫌いだが鳥は大好きだ。獲物として。  よし。次こそはわがハンターの血を見せてやろう。  わが名は虎。種族はネコである。



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