「地図にない国」



 一面、白以外の色はない。地面も、樹も、屋根も道も、全てが白い雪で覆われていた。
 空は、こんなにたくさんの雪を落とし終わったせいか、すっきりと晴れ渡った青色だった。
 太陽の光に、太陽がギラリと光る。
「うう!」
 家から表にでたスイレイは、思わずその目から入って脳天まで突き刺すような強い光に、両目を腕で
覆った。
「スイレイ、お外行くなら、ちゃんと暖かい格好をしていきなさい」
「ちゃんと着たよ」
 家の中の母の声に返事をしながら、スキー用の防寒のスーツと手袋、マフラーという、完全武装をみ
おろした。
「よし!」
 声をかけると、雪の中へと駆け込んでいく。そして庭の足跡一つない雪化粧の中に、大の字に倒れる。
 まだ小さな体が雪の中に沈み、顔が柔らかく冷たい感触に覆われる。
 10歳のスイレイ。自分だけの雪景色に、うっとりと酔いしれるのだった。


「え〜! スイレイが行かないなんて、聞いてないもん」
 長い髪をきっちりと結い上げたジュリアが、ピンクのスキー用のワンピース姿で現れると、パジャマ
のまま居間でミルクを飲んでいたスイレイを見つめて文句をたれる。
「別にぼくが行かなくたって、ジュリアはスキーを楽しめばいいでしょ?」
 ミルクを飲みつつテレビから目を逸らさずに言えば、ジュリアははめていた手袋を外してスイレイの
後頭部目掛けて投げつける。
「わたしは、スイレイとスキーをしたいの!」
「やっとボーゲンができるようになっただけのチビッコのおもりはしたくない」
「じゃあ、わたしが行くから、スイレイは行かないって言うの?!」
 怒りとショックを混ぜた顔で立ち尽くすジュリアに、スイレイはチラリと後ろを振り返るとカップの
中でわずかに残っていたミルクを見つめ、飲み干すとソファーから立ち上がってジュリアの手袋を拾い
上げた。
「別にそんなんじゃないよ。ただ、スキー場が嫌いなだけ」
「スキー場が? スキーは好きなの?」
「うん。スキーは好きだよ。山の上から冷たい空気の中を駆け下りるのなんて、最高に気持ちがいいし、
山の斜面に、風でできた雪の風紋を見下ろすのも好き」
「だったら」
「でも、スキー場は嫌い」
「………」
 スイレイはジュリアに手袋を手渡すと、赤いハートのついたピンをつけた髪の毛を撫でた。
「かわいいね、これ」
「……うん。お父さんを朝の五時に叩き起こして、やってもらったの」
 スイレイに見せるためだったのにな。
 ジュリアは上目遣いにスイレイを見上げたが、笑顔で頭を撫でてくれているスイレイに毒気を抜かれ、
ため息をついた。
「いいよ。スイレイが行かないなら、わたし一人でスイレイのぶんも楽しんでやるんだから」
「うん。そうしておいで」
「………お父さんとカルロスおじさんに、お昼においしいケーキも奢ってもらっちゃうからね」
「うん。たくさんおいしいものも食べるんだよ」
「………」
 悔しがらせようと思った言葉も、スイレイの天使の微笑みに跳ね返される。
 ジュリアはプイと顔を背けると、玄関でスキーに行く準備をしている父たちのもとへと走っていった。
 大荷物を抱えた一行のもとに走りこんだジュリアは、スイレイを振り返ると、アカンベーをして舌を
出したのであった。


 小さな雪玉が、転がしていくうちに大きな塊になっていく。
「うん。なかなかいいけど、完璧な円形を作るって、難しい。しかも泥が付くのが許せない」
 自分の腰ほどもある大きさの雪玉を前に腕組みして、スイレイは唸っていた。
 頭に思い描いているのは、真っ白でまん丸なスノーマン。
 頭には赤いバケツをのせて、木の枝の腕があり、顔には欠けたレンガの鼻と石ころの目玉。
 だが思い描いた通りには、物事はなかなか運ばないものだということを、スイレイは思い知るのであ
った。
 家にあったバケツは、かわいらしくもない銀の、しかもかなり歪んだバケツで、枝もスノーマンの腕
には短すぎる、しかも太すぎる薪で、唯一思い通りになったレンガの鼻はあっても、目にするのにちょ
うどいい、小石はなかなか見つからなかった。しかも二つの雪玉はいびつで土つきで汚れ、そのうえ胴
体の飢えに頭を乗せるのは、一人ではできないらしいことが分かりつつある。
「予定外だ………」
 スイレイがもう一度唸る。
「スイレイ、お昼ごはんよ」
 寒そうに肩を手で摩った母、レイリが家から顔を覗かせる。
「あら、雪だるま?」
「……うん。でもうまくいかないんだ。スノーマンの目玉になるものがなくて」
「そうねぇ」
 首を傾げて考え始めた母が、急に顔を輝かせると笑顔をみせる。
「いいものがあるわ。家にお入りなさい」
「うん。あと、頭を乗っけられない」
「だったら、お昼ご飯のあと、ママが手伝ってあげるから」
「うん」
 家の中からは、卵の焼けた甘いかおりと、ケチャップの食欲をそそる匂いが漂っていた。
 外に出たときはすごく寒かったのに、今は家の中がストーブの前に座り込んだみたいに暑いや。
 スイレイは新たな発見に、頬を赤く染めながら、家の中へと入っていった。


「はい。ママ特製のオムライス」
 ダイニングのテーブルについていたスイレイの前に、大きなオムライスが置かれる。
「何これ?」
「あれ? 気に入らなかった? ママ自信作だったのに」
 オムライスに冷めた目を向ける息子に、レイリが目に見えて肩を落とす。
「なんで二種類もソースかかってるの?」
 目の前のフアフアオムライスはおいしそうなのだが、片側には真っ白なホワイトソースがかけられ、
もう片側には赤いトマトソースが、丁寧に両者とも黄色い山のてっぺんから流れ落ちている。
「ホワイトソースは、スイレイは行かなかったけどスキーに行った気分になれるようにっていう意味で
雪にみたてたんだけどな」
「じゃあ、トマトソースの方は、溶岩?」
「…………どうかしらね?」
 じっとオムライスを見下ろしているスイレイに、レイリが唇に指を当てて首を傾げる。
「かわいこぶりっこしてもダメだからね」
 手厳しい指摘をしながらも、スイレイが「いただきます」と声をかけてからスプーンを手に取る。
 スプーンを入れるだけでプルプルと揺れる卵を割ると、半熟の卵とトマトソースを混ぜてチキンライ
スを口に運ぶ。
「どう?」
「………うん。なかなかうまい溶岩だよ」
 意地悪く批評して見せたスイレイだったが、次の瞬間にはニコっと笑ってみせる。
「すごくおいしい」
「本当? 雪のお味は?」
 向かいのテーブルにつきながらワクワクしながら尋ねる母親に、スイレイはホワイトソースの方も口
にする。
「おいしいよ。この前ぼくが言ったみたいにちゃんと生クリーム使ったんだ?」
 レイリは自分でもオムライスを口に入れて笑顔を浮かべながら頷く。
 子どもながらに鋭い批評を繰り出すスイレイとは、毎回が戦いだった。普段は優しい、親を困らせる
ようなことを決してしない子どもだったが、一度批評を頼んだのがきっかけで、毎度毎度の食事が、レ
イリのお料理トライアルだった。しかも、息子が料理批評のために有名シェフのお料理本を読み漁って
知識を仕入れ始めていることを、知ってますます手を抜けない日々だった。
 でも今日はパクパクと止まることなくスプーンが口に運ばれているところを見ると、かなりの高評価
だったらしい。
 それを嬉しそうにじっと見つめていたレイリだったが、不意に口に運んでいたスプーンを止めた。
 それに気づいたスイレイが口の横にトマトソースをつけた顔を上げた。
 そのソースを指で掬い取ってやりながら、レイリが言った。
「スイレイ、どうして今日はスキーに行かなかったの?」
「え? ……別に行きたくなかったからだけど」
「そうなの? だってスイレイはスキー上手だし、好きじゃない。もしかして、ママが行かれないから
、気を使って残ってくれちゃったのかなって思って」
 レイリはここ一週間ほど風邪で熱を出していたので、家で安静にしているようにと父に厳重に通告さ
れていたのだった。もともとレイリはスキーはやらないので、行ったとしてもゲストハウスのレストラ
ンで待っているだけなのだが。
「そんなんじゃないよ。ママが残ってようが、行きたければ行くよ。……ジュリアにも言ったけど、ぼ
く、スキー場って好きじゃないんだ」
「そうなの? どうして?」
「………」
 残ったオムライスをスプーンで切りながら、スイレイは自分の気持ちを言葉にしようとしてみた。あ
の、スキー場の喧騒についた瞬間の、胸にうずまくモヤモヤした気持ち。
 もちろんスキーをはじめてしまえば忘れてしまうような種類の気持ちなのだが、あえて言葉にしよう
とするとなかなか難しいものだった。
「よくわかんないけどさ」
 スイレイはそう言って最後のオムライスを口の中に放り込む。
「ママ、デザートもあるの?」
「もちろんあるわよ。パパたちに負けないくらい、わたしたちも休日を満喫したいもの」
 レイリは自分も残りのオムライスをいつもは見せないほどの快活さ(荒っぽさか?)で掻き込むと、
空になったお皿をスイレイに見せて笑う。
「デザートは雪だるまのブリュレよ」
 いったい今度はどんな盛り付けをしてくることやら、などと思いながら、スイレイはダイニング横の
居間のソファーへと歩いていった。
 ソファーに寝転がってテレビをつける。
 いつもはしない食べた後のゴロリが、レイリの言った休日を満喫していることになるような気がして、
なんだかくすぐったいような、はずんだ気分だった。


 レイリ作の雪だるまのブリュレを食べながら、テレビの中の映像をスイレイはじっと見つめていた。
「白熊がいるのって、北極だよね?」
 映像の中で、簡単に割れてしまう足場の氷に悪戦苦闘し、進むに進めずにやせ細っている白熊がいた。
ナレーションは、母熊は子どもを育てるために、もう何ヶ月も絶食していて、体力的にもギリギリなの
だと語っていた。
「北極ってすごく寒いんでしょ?」
 一面が厚い氷に覆われている海の映像を見ながら言うスイレイに、レイリがうなずく。
「バナナで釘が打てるくらいね」
「は?」
 真面目に聞いたのにちゃかされた返答に、スイレイがわずかに苛立ちを混ぜて眉間に皺を寄せる。
「寒いよ、寒い。でもね、この頃は地球温暖化っていうでしょ? 地球の温度が毎年少しづつ上がって
いるんですって。」
「うん。ぼくも学校で習ったよ。地球温暖化で北極の氷がドンドン溶けているって。そうすると、海に
近い国は、海面が上がったせいで消えちゃうんだって」
「そうなんですってね。地図の上から消えちゃう国も出てくるかもしれないんでしょ? 怖いわね」
 テレビの中の白熊も、暖かくなっていく世界に立ち向かって生きていかなければならない、被害者に
見えて、スイレイは悲しかった。
 自分が呑気に遊んでいる間にも、自然界の中では命の戦いが繰り返され、苦しみの中で散っていく命
がどれだけあるのだろう。
 考え始めると、胸の底が苦しくなって、スイレイは持っていたブリュレののったガラスの器をテーブ
ルに下ろした。
「もう食べないの?」
「うん。白熊に悪いし」
「ええ? だったら食べない方が悪いんじゃないの? 資源の無駄遣い! ついでにママも悲しい」
 恨みがましい目で睨まれ、スイレイはうっと声を詰まらせると、仕方なしに残りのブリュレを口の中
に掻き込んだ。
 それをおもしろそうに眺めていたレイリだったが、空になった器を見せて「文句ないでしょ?」と胸
を張ってみせるスイレイに頷く。
「スイレイは優しいから、こういうの見ると真剣に悩んじゃうんだね。スイレイが白熊さんたちのため
に真剣に考えてあげるなら、まずはスイレイが自然を大好きになって、それをいろんな人に話してあげ
るのが、大切なんじゃないかな? 大好きな自然だから、大切に、ありがとうという気持ちを忘れない
ようにしないといけないよって」
 暖かい目線で問い掛けられ、スイレイはレイリをじっとみつめた。
 自然は今も大好きだった。遊園地よりも、湖の側でキャンプするのが好きだし、父カルロスにも、キ
ャンプに行ったら、絶対にゴミを捨てるようなことはしてはいけないと諭され、かならずゴミ拾いもさ
せらるくらいだった。
 でも、自然に対して「ありがとう」と思ったことがあるかというと、それは謎だった。
 そこにあるのが当たり前で、いつまでも変わりなくそこにあってくれると思っていたからだ。ある日
突然、いつもキャンプに行っている森や湖が消えてしまったら、きっとすごく大切なものをなくした気
分になるだろうことは、想像だけでも分かった。
 そして、そう考えながら、はじめて自分がスキー場が嫌いなわけが分かった気がした。
「ああ。それでか」
 不意に大きな目をして言ったスイレイに、レイリが首を傾げる。
「ぼくがスキー場が嫌いなわけ。なんかね、キレイな自然の中で、人間が王様みたいに偉そうな顔して
るのが嫌だったんだ。ガンガン音楽かけて、自分たちが征服した場所ですって、大声で言ってるみたい
なんだもん。それにね、そこに来てる人って、雪も木も、とってもキレイなのに、全然見てない気がす
るんだ。みんなカッコばっかつけて競いあってる」
 自分の中で溢れ出した言葉をじっと見つめて語る息子を、レイリはじっと見つめ、うんうんと頷いた

 こんなに小さな体かもしれないが、その中にはどれだけの思いが詰まっているのだろうかと感動しそ
うになる。
「そうだね。ママもそう思うよ。スキーに来てるお姉さんって、化粧濃いし、お兄さんたちもやけにフ
ァッショナブル」
 相槌をうってくれた母に、スイレイも勢いよく頷く。
「スイレイはずっと忘れないでね。雪の美しさも、青い空の清々しさも。それを大切に心に持っていら
れれば、きっとスイレイが、将来地球を救う偉い人になれるかもしれない」
 レイリがスイレイの頭をなでる。
 スイレイは将来を思い描き、上気した頬でテレビの中の白熊を見つめた。
 アザラシを仕留めて豪勢な食事にありついている母熊が映っていた。
 ぼくが大きくなって、君たちを助けてあげるからね。それまで元気に待ってるんだよ。
 スイレイは、白熊の親子にエールを送った。


「はい、完成!」
 二人でそろってスノーマンの顔に、ビー玉に目玉を入れる。
 帽子は歪んだバケツだし、腕はぶっとい薪だし、なんだか汚れた体だったが、どんとそこに座り込ん
でいる姿が、スイレイは満足だった。
 ビー玉の目とレンガの鼻が、なんだか愛嬌のある顔を作っている。
 空は真っ青に晴れ渡り、白い世界がキラキラと宝石よりもきれいに輝いている。
 空高く昇った太陽に、枝にたまっていた雪から、透明な雫が滴り落ちていた。
 一瞬の輝きを見せる水滴の宝石。だからこそ、どんな宝石よりも大切なんだ。どこにもとどめておけ
ないからこそ、ぼくの目と胸に焼きつけておこう。
 スイレイはレイリの横に立って、手をつなぐと、二人で大きな雪だるまと記念写真をとった。


 写真をアルバムに貼りながら、窓の外に置いた小さな雪だるまに目をやる。
 夕方に帰ってきたジュリアが、スイレイへのおみやげで、スキー場で作ってきてくれたらしい。
 だが当の本人ははしゃぎすぎたのか、すっかり疲れて車の中で熟睡中だった。
 ジュリアが朝着けていた、赤いハートのピンつきの雪だるま。
 自分の誇らしげにスノーマンの横に立った写真と、涎を垂らして寝ているジュリアの写真を並べる。
 色ペンを手にとり、写真の横に文字を書き込む。
―― ママとつくったビー玉目玉のスノーマン。
   キレイな雪を降らせてくれたお空にありがとう

 書き込みながら、ふとスイレイは昼間に見た、白熊のことを思い出した。
 熱を出した地球に、翻弄されて行き場をなくしつつある白熊たち。
 きっと地球上では、他にも困っている動物たちがいることだろう。
「きれいな地球を作ってあげられたらいいのにな」
 スイレイはふとそう呟くと、アルバムを閉じ、新しいノートを開いた。
 ノートの見開きに、悩んだ後で大きな文字を書き込む。
『キレイな地球計画 〈エデン〉』
 レイリに見せてもらった聖書の中の楽園の絵を思い出し、スイレイが文字を綴る。
 いつか作りあげたい場所。
 地図にはない、新しい国。
 それが〈エデン〉。
 真剣に色鉛筆を動かし、絵を書き続けるスイレイを、窓の外から雪だるまが見つめていた。


                                                      〈了〉

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