タッチ・マイ・ハート

<前編>
    机の上といわず、床にも転がるビールの空き缶を拾い集めながらため息がもれる。  時計の針はすでに朝方の4時を示し、窓の外はまだ暗いながらに朝の気配を漂わせていた。  なんでこんなに汚ねぇんだってんだ。  空き缶集めも、散らばったスルメの足やらポテチの欠片の掃除も放棄してベッドに寝転がる。  するとこの時を待っていたとばかりに体の中から魂が吸い取られていくように、疲れとともに体が重 力に引っ張られて眠りへと落ちそうになる。  ヤケ酒だった。  眠りに落ちそうな曖昧模糊とした意識の中で、だが正確につい数時間前までされていた会話が頭の中 で再現されていく。 『なんなんだよ、女っていうのは。散々貢がせたあげくに「ごめんね、他に好きな人ができちゃったの」 だぁ? 泣きゃ許されると思ってんのか?! ふざけんなよ。泣きてぇのはこっちだ!』  あおったビールをガンと勢いよく机に叩きつければ、泡と一緒にビールの飛沫が空を舞う。 『まぁ、おまえの女も女だけどさ、面食い過ぎんだよ、おまえ。あの女がいつまでもおまえに満足して るとは、俺は思ってなかったね』 『あん? しょうがねぇじゃねぇか、ブスは好きになれないんだから』 『だから、女は顔じゃないでしょう』 『じゃ、なんだ?!』  座った目で睨み上げれば、にんまりと笑った友人がスルメを齧りながら言う。 『女はこう、ムチムチボイーンと』 『アホ!』  手元に転がっていた新聞を丸めて頭を叩けば、スコーーンと小気味いいほどの音を立てる。  叩かれた頭を摩りながら、だが友人は上機嫌に笑って言う。 『気取るな、気取るな。おまえだって体の相性はいいほうがいいだろ? できたら顔が埋まっちゃうく らいの巨乳で』  怪しい手つきで宙を揉む友人に、ケっと笑ってみせる。 『てめぇの頭の中はそれだけか? 脳内全部Hで埋まってますみたいな? 俺をおまえと一緒にするな』  お互い怪しい呂律の中で、言いたいことだけを言い合って酒をあおる。  飲み終わったビールの空き缶を放り出し、幾分生ぬるいのも気にせずに新たな缶を手にしてプルトッ プを引く。 『じゃあ、おまえは女になにを求めるん?』  エロトークに乗ってこない様子に、友人は酔っ払いながらに真面目な顔つきで尋ねる。 『つまり、あれだ、ほら。俺はさ、ちゃんと心が通じ合える相手が欲しいんだ。金とか体とかキャリア とかそんなん、部分でなくて、全部を受け入れ、受け入れてくれる相手がさ』  秘めていた思いを一世一代の大舞台から飛び降りる気持ちで告げる。  だが真面目に頷いていた友人の顔が、一気に爆笑へと変わる。 『おまえ夢見すぎ! このロマンティスト野郎め!』  先ほどのお返しとばかりに新聞バットが頭に振り下ろされる。 『男と女。所詮他人。思惑と手前勝手な期待を幻想でコーティングして自分の都合のいい夢みようとし てるだけなんだから』 『そんな身も蓋もない』 『そう。夢も希望もないの』  悟ったように頷いてビールをあおる友人を見上げ、違うと反論したい気持ちがもたげたが、違うと言 い切るだけの証拠も理論も自分の中にはなかった。  第一、そう信じてきて間違っていたことを実証してしまったのが自分に他ならないのだから。  ベッドの上で天井を見上げ、ため息をつく。  男、桐生稔、23歳。誕生日を迎える一週間前に女に振られました。  こんなときに涙の一雫でも流せれば様になるのにな。  そう思った瞬間にきたのは、嗚咽の予感ではなく、嘔吐の予感だった。  つくづく様にならねぇよ。  やけにピカピカ光って見える便器に顔を突っ込みながら、稔ははじめて嘔吐の涙を流した。  洗面所の蛇口に口を突っ込むようにして口をすすぎ、大きく息をつく。  酒のあとの嘔吐は病気のときの嘔吐と違って対して苦しくはない。胃がひっくり返って中味を吐き出 すというよりは、溢れてきた酒や食い物を食道をホースがわりに出してやるだけの感覚に近い。  が、味はやっぱりこの上なく悪い。そのうえ吐いたという感覚が疲労感を体いっぱいに広げてくれる。 「酒出したんだからスッキリしてくれや! まったく」  泣き言を一緒にベッドに倒れ込めば、体どころか心の中もすっきりしていない事実に頭を抱えて枕に 顔を埋める。 「くそ!」  未練タラタラだ。  ほかに好きな人ができたの、ごめんなさい。そういったときの涙を浮かべた彼女の顔が脳裏に浮ぶ。  確かに涙は浮んでいた。だが、それが目の前の自分を思って泣いているのではないことは嫌でも分か ってしまう。自分の演技に酔っているのだ。男と別れる自分を演じて涙している。そういう女だ。  最初の出会いから、そんな要素のある女であることは分かっていた。  なんといってもあの女。二次元のキャラにしか惚れられない隠れオタク。  普段は真面目な女子大生を演じる、長いストレートの髪を背中に垂らし、ミニでもない清楚なワンピ ースに低いヒールのパンプスを履く、かわいらしい女の子だった。  お昼は必ず手づくりの小さいお弁当。お絞りも忘れずに携帯。大好きなキャラはリラックマ。大好き な色は清純の白と可憐のピンク。身につけるアクセサリーも小さな花のついたピアスと淡水パールのネ ックレスだけ。  ああ、あのネックレスが汗ばんだ首筋で揺れるのはかなり萌えたんだけどな。  稔は名前と違って実りのない妄想に浸っていたが、虚しくなってため息をつく。そんな妄想をしても 心は慰められず、反応するのはバカ正直な下半身だけ。 「この野郎。ちょっとは空気読め!」  自分の一部だというのに他人の事のように自分のふくらんだ股間を殴り、痛みにバタンと布団に大の 字に転がる。  そうそう脱線したが、彼女との出会いはバイトでしていた着ぐるみでの戦隊もののショーだった。と いっても俺は正義の味方のヒーロー役じゃなくて、団体やられキャラの一員ってだけなんだけど。仮面 ライダーでいうところのショッカ―だ。  夏の暑くてたまらないバイトだったけど、このバイトが彼女との出会いだったのだ。  どうやら後でわかることなのだが、彼女はこの戦隊ものの赤レンジャーさんのファンだったのだ。そ んでもって出待ちをしていたと。  その彼女にシャワー後の水も滴るいい男状態の俺がドアから出たところで体当たり。  差し入れの入った籠を抱えた彼女は尻餅をつき、俺は慌てて彼女を助け起す。  な、ベタだろ? ベタ過ぎだよ。でもこのベタさ加減が彼女の二次元世界のファンタジーとリンクし ちまったんだ。  目にはハートマークが灯り、「おつきあいしてください」だ。  長い過去の回想を終えて実がため息をつく。 「あ〜あ、まともな女転がってねぇかな」  転がっているような女に当りがあるはずもないのだが。  とそのとき、真夜中というより明け方のもっとも人が眠気の真っ最中であるような御前四時だという のに電話のベルが鳴る。しかも携帯ではなく備え付けの家電だ。 「めんどくせ」  どうせ留守電に必要ならメッセージが残るだろう。  そう思って電話に背を向けて寝転がる。  案の定留守電が機械音のメッセージを告げてピーとなる。  どうでも良いと思いつつ聞き耳を立てていた稔は、数秒後理不尽な選択に頭を抱えることになる。 ―― 最後でいいの。会って欲しい。そうでないとわたし生きていけない。今目の前が湘南の海。来て くれなければ、海に入る。  おいおいおいおい。誰だよ、おい。  窓の外は大荒れ予感の強い風。  そんな海に入ったら死ぬってば。  稔は見知らぬ女の死にますの間違い電話に、ベッドの上で上半身を腕で支えながら固まるのだった。
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