「黒い恋のキューピット」



  キンコーン。
硬質な鐘の音を連想させる玄関のチャイム。
「こんなときにいったい誰よ」
 両手をペンキ塗れにして脚立の上に座っていたジュリアは、文句の言葉を並べて、1メートル下の床
でペンキの缶を開けていた父、ジャスティスを見下ろした。
「全くだ。でも、ぼくらにとってはこんな時でも、訪問者はぼくたちが今何をしているか知らないんだ
から、文句を言われる筋合いはないってもんだ」
「まあ、立派な考えですこと。だったら、そのお客様を、さっさとお迎えしてください」
 偉そうに顎で階段下の玄関を示す娘に、ジャスティスがため息をつく。
「なんて愛らしい娘なんだ」
「本当にね」
 不敵に笑って見せれば、ジャスティスが脚立をわざと揺すって見せる。
「ヤダ! 落ちる!」
 慌てて脚立の脚を掴めんだジュリアに、握っていたペンキのたっぷりついた刷毛が頬をかする。
「ピンクの頬紅か、ジュリア?」
 おもしろそうに笑って階段に向かって走っていくジャスティスの背中に、刷毛からペンキを飛ばして
やる。
 だがペンキはジャスティスの背中ではなく、階段の白い柱を直撃していらぬ水玉模様を作ってしまう。
「そこはジュリアが補修すること!」
 ジャスティスが言い渡したときに、再びチャイムが鳴る。
「ああ、お待たせしてすいませんねぇ」
 大急ぎで階段を駆け下りていったジャスティスが玄関を開けた。
 だがその後に続いたのは、親しい友人との挨拶の声でも、押し売りのセールスマンを追い返す言葉で
もなかった。
「うわああああぁぁぁぁ!」
 ジャスティスの壮絶な叫び声。
「お父さん!」
 まさか、強盗!
 ジュリアは脚立から飛び降りると、階下を見下ろした。
 そこに見えたのは、銃を突きつけられて倒れたジャスティスではなく、大きな黒い物体に押し倒され
て床に転がった父の姿だった。
 ジャスティスを押し倒しているのは黒いラブラドール。
 長い舌でべろべろとジャスティスの顔を舐める人懐こい犬の下で、ジャスティスが顔をゆがめて唸っ
ていた。
「……腰……腰……。腰が変な音を立てた」


「ぎっくり腰ですね。1週間安静にしていれば、自然と治りますから」
 処方された湿布を胸に抱え、ジュリアは情けないと責めるような目でジャスティスを見る。
 その視線を受けたジャスティスはといえば、大きなフェイの背中で、恥ずかしげに背負われているの
だった。
「いや、別にジャスティスが悪いわけじゃないから、責めるなよ」
 ジュリアの視線の先に同じくいたフェイだけに、容赦ない厳しい視線に苦笑しながら、ジャスティスを
庇った。
「たしかにあの黒ラブちゃんを連れてきたのはフェイおじさん。だから責任の一端はおじさんにある。
でも、犬に抱きつかれたくらいでぎっくり腰になるなんて、お父さん、かっこ悪過ぎ。運動不足なのよ」
「すいませんね、ぼくは頭脳労働者なんで」
「男の背中に背負われた、賢い科学者先生ですものね」
 辛らつに言われて、ジャスティスが憎たらしいと声を漏らすが、言葉にはならなかった。
「湿布くらいは貼ってあげてもいいけど、まさか下の世話までしろとか言わないよね」
「トイレぐらい自分で行けるわ!」
「ああ、それ聞いて安心した」
 車のドアを颯爽と開け、笑顔で振り向くジュリア。
「さあ、どうぞ。ジャスティス博士」


「それにしても、すごい大改装を考えたもんだ」
 高い脚立の上でペンキを塗りながら、タオルを頭に被ったフェイが呟く。そして見渡せる限りの壁を
見回した。
 吹き抜けの玄関を真下に見下ろす二階の階段が、今フェイがいるところだった。
 二階の壁は、以前のクリーム色を深い緑色が喰らい尽くそうとしていた。
 ペンキがついてはならないところに目張りをするだけでも大変な作業であった様子が目に浮かぶ。
「お父さんのぎっくり腰を引き起こした犬の飼い主の責任で、お父さん担当だった部分のペンキ塗りは、
フェイおじさんがやってね」
 ペンキと刷毛を目の前に突き出してきたジュリアに、フェイは「申し訳ありません。喜んで協力させ
ていただきます」と頭を下げたのだった。
 その当のジュリアは、ついさっき自分の部屋の壁をペールピンクに塗り終え、壁にクマの絵を描いて
ねといいながら、台所に消えていった。
「俺にイラスト描かせると高いんだけど?」
「だったらお父さんに請求して。売れっ子のイラストレーターさん」
 台所からジュリアが叫ぶ。
 先ほど覗いたピンクの部屋は、あたり一面がビニールで覆われ、そのビニールの上にもペンキが飛び
散り、とてもではないが、今夜の休息のための場所としては適していない様子だった。
 というよりも、病院から連れ帰ったジャスティスを寝せるためのベットを用意するだけでも、なかな
か骨の折れる仕事だったのだ。
 計画性はないのか? と問いただしたくなるほどに、そこらじゅうでペンキ塗りが始められており、
唯一手付かずだったゲストルームのベットが使用可能なものだった。
 つまりは、寝返りをうつ度に唸り声を上げているジャスティスが使用中のベットをのぞけば、この家
に今使えるベットはないという結論だった。
「こまった人たちだ」
 それに巻き込まれた自分だったが、フェイはそんな先の見えないお祭り騒ぎに首をつっこむのが楽し
くて仕方がなかった。
 階下の台所では、何をどうしたらそんなに騒音を立てられるのかという音が鳴り響いていた。
 匂いからすると、ジュリアがチャレンジしているのは、最もポピュラーな家庭料理のカレーであるら
しいが、音だけ聞いていれば、ブリキのニンジンや棍棒をちぎってできたポテトが入ったカレーが出て
きそうだ。
「あいつならやりかねない」
 想像の中のジュリアが差し出すカレーを思い浮かべ、げんなりしながらも、フェイはおかしくなって
噴き出した。
「何思い出し笑いしてるの? やらしい」
 いつから階段下で自分を見上げていたのか、ジュリアが大きな声で言った。
「いや、べつに」
 ペンキ塗りを再開する振りで誤魔化せば、ジュリアが疑わしい目つきを自分に送っているのが背中で
も感じられた。
 だがすぐに興味を別に移したジュリアが、階段を上って自分の方へと歩いてくる。
「だいぶ進んだね。完成が楽しみ」
「ここにも絵をお描きしましょうか?」
「うん。深い森の中の草原みたいにしたいな」
「了解。……ところで」
 生き生きと理想の家を思い浮かべて語るジュリアに対し、急に声のトーンを落としたフェイが、恐る
恐るジュリアの顔を見た。
「何? どうかした」
「あの、その草原に生えている花の色は黄色でもいいでしょうか?」
「は? 別にいいけど」
 いぶかしんで眉間に皺をよせるジュリアに、脚立の上のフェイが自分の背後の塗り終えたはずの壁の
方を指差した。
 そこには、深い緑の色合いの中で、無数の黄色い雫を撒き散らす存在がいた。
 黄色いペンキを染みこませた刷毛を咥え、振り回している黒いラブらドール。
 黒ラブの鼻の頭が、黄色く染まっていた。


 大きなボールに入れてもらったドックフード+牛肉を、文字通り「ごちそうだ!」と狂喜して食べる
黒ラブのクリスティーナ。バクバクと音を立てて食べる様を、床に座り込んだフェイが楽しそうに見守
っていた。
 そしてジャスティスに食事をさせるためにベットの背中にクッションを詰めてやっていたジュリアは、
「痛い痛い」と叫んでいるジャスティスに苦戦しながら、それでも陽気なクリスティーナの様子を目に
するたびに笑みを浮かべた。
 なんとか納得のポジションを見つけて落ち着いたジャスティスの前に、トレーに乗せたカレーと水と
サラダを差し出す。
「さ、娘特製のカレーを心行くまで食べて頂戴」
 ヌッと荒っぽい仕草で差し出されたスプーンを受け取り、ジャスティスが不穏な色をしたカレーを見
下ろす。
「なんか黒いな、これ」
「大丈夫大丈夫。イカ入れたら黒くなっただけだから」
「イカスミ?」
「さあ?」
「イカどうやって処理した?」
「処理って? ただぶつ切りにしただけ」
「………内蔵出さなかったんだ」
「ええ? イカって内臓あるの?」
「…………」
 ジャスティスが点になった目で娘を見ていた。
 それがおかしくて、フェイは笑い声を漏らす。
「ジュリアが医学部入れたのは奇跡だな」
 小声でつぶやくのを聞きつけたジュリアが、スプーンでカレーを口に運びかけていたジャスティスの
後頭部をペシっと叩く。
 その衝撃に、スプーンと前歯があたり、ガチっと音を立てる。
「じゃあ、俺もイカカレーをいただくか」
 フェイはにらみ合う親子をよそに、床にじかに置かれたカレー皿を手にとった。
 ジャスティスの言葉通りに黒いカレーがスプーンの上で揺れる。
 だが、口に入れた瞬間に、思いにもよらぬ味に目を見開いた。
「ま、まずいのか? ムリするな。吐き出してもいいぞ」
 すかさず言ったジャスティスに、フェイはカレーを飲み込むと首を振った。
「うまいよ、これ」
「キャー、本当?」
 ジュリアも床に座り込むと、カレーを口いっぱいに頬張る。
「本当だ。おいしい、おいしい! わたしって、実は料理の天才なんじゃない?」
 自画自賛で叫ぶジュリアを、ジャスティスは口の端に皮肉な笑みを浮かべて眺めていた。
 だが本当においしかったカレーにおかわりまでしたのだった。
 みんなが笑いながら食事をする中に加わったクリスティーナが、頂戴頂戴とみんなの周りを回る。
「ダメ。カレーは香辛料が強いからね」
 フェイにもジュリアにも断られ、クリスティーナの目がジャスティスを見る。
 その目が光る。獲物発見!
「おい、こっちに来るなよ」
 ジャスティスがベットの上で動けない状態で両手を突き出す。
 だが、悪い予感とはあたるものだ。
 おいでと手を差し出されたと勘違いしたクリスティーナが、勢いよくベットにダイブし、ジャスティ
スに悲鳴を上げさせることとなったのであった。


 ジャスティスを気に入ってしまったらしいクリスティーナをなんとか部屋から連れ出し、ジュリアと
フェイが顔を見合わせると笑い声をかみ殺した。
 今の部屋の中からはうめきと悪態が聞こえてくる。
 食事後に腰の湿布を貼ってやろうとパジャマのズボンを下ろしたとき、すかさず顔を出したクリステ
ィーナがジャスティスのお尻をペロリと舐め、その生温かさにジャスティスが悲鳴を上げた。
「そんなにジャスティスが気に入ったか?」
 見下ろしたフェイに、クリスティーナが尻尾を振って応える。
「やっぱりジャスティスはモテルなぁ」
「クリスティーナは女の子?」
 差し出したジュリアの指を、クリスティーナが舐める。
「あ! お父さんのお尻舐めた舌で、汚いなぁ!」
 ジュリアが叫びを上げる。
 だがその声にハシャギ始めたクリスティーナが、ジュリアに体当たりを食らわす。
「ヤダ! わたしまでぎっくり腰にしないでよ!」
 逃げていくジュリアの後ろを、全力疾走でクリスティーナは追っていく。
 ジュリアが自分の部屋の中に駆け込み、なんとかスピードを殺してカーブをきったクリスティーナも
ジュリアの部屋に飛び込む。
「走るから、犬は後を追うんだって」
 呑気に階段を登って行ったフェイの耳に、ジュリアの笑い声とクリスティーナの吠え声、そしてカシ
ャカシャと盛大になるビニールの音が聞こえた。
 明かりもつけずにいるジュリアの部屋を覗けば、ベットの上でビニール巻きになったジュリアとクリ
スティーナがいた。
 もう観念したのか、べろべろと顔を舐められて涎まみれの顔にされながら、ジュリアが寝転がってい
た。
「今晩はどこで寝るんだ?」
「ここで寝る」
「ここ?」
 ペンキの匂いが充満した部屋で寝るのは感心しないが、かといって、この家で今ペンキの匂いがしな
い場所などないのだ。
「窓開けとかないとシンナー中毒になりそうだな」
 窓を開け放ったフェイが振り返れば、ジュリアが自分を見上げてベットをポンポンと叩いている。
「こっち来て」
 クリスティーナもここで寝るつもりなのか、ジュリアの横に体を横たえて、ちゃっかりと枕に顎をの
せていた。
 フェイがベットに腰を下ろすと、甘えた子どものように、ジュリアがフェイの腰に腕を回す。
「この子はどこで見つけてきたの?」
 フェイが犬を飼っていたなんて聞いたことのなかったジュリアが、後ろのクリスティーナの背中をポ
ンポンと叩きながら聞く。
「ああ。クリスティーナは捨てられてたんだ。知ってるか? 別荘とか持ってる金持ちって、夏の間だ
け別荘で犬飼って、帰るときには捨ててくって」
「え? 酷いじゃん、そんなの。飼う資格ない」
「そうなんだよ。でも犬はそんな酷い飼い主でも、ご主人様だと思って慕って待ち続けるんだ。きっと
迎えに来てくれるはずだってな」
 ジュリアがじっと黒い目で自分を見つめるクリスティーナを見つめ、その頭を大事そうに撫でた。
「そうか。悲しい思いしちゃったんだ」
 だが、クリスティーナの方は、そんなこと気にしていないよというように尻尾を振って寛いでいた。
「衰弱しているところを保護したって聞いてね。会いに行ったらなんか波長があっちゃって、そのまま
お持ち帰り」
「ふふふ。一目ぼれか」
 フェイの腿に頬を寄せたジュリアが言う。
 その目が眠気に襲われているらしく、うとうとと閉じらていく。
「疲れただろう? ゆっくり寝ろ」
「……うん」
 だが、そう言ったジュリアは、フェイの腰から手を離す様子はなかった。
「おじさんが側にいてくれると、ホッとする。わたし……、毎日ギスギスしちゃって、もう……恋なん
てできないかも………」
 フェイはすっかり目を閉じてしまったジュリアの横顔を見下ろし、その頭を撫でた。
 あの事件から早半年が経ってはいるが、当事者の心の中にできた傷はそうそう簡単に癒えるものでは
ないのだ。
「キスも……もうずっとしてない」
 言いながら眠りに落ちたのか、息が深くなる。
 ジュリアの背中では、クリスティーナもすっかり眠ってしまったようだった。
 泣き言は口にしないジュリアの、今のは耐え切れなくなって溢れた思いだったのかもしれない。
 気が強くて、苦しさも飲み込もうとしてしまう気丈な横顔も、寝顔になればあどけなく、同時に無防
備で、フェイに思いがけない気持ちを湧き立たせた。
「どっかの誰かさんに似てるのが、いけないんだな」
 そういえば、あいつとは伯母と姪の関係だったんだ。
 フェイは苦笑しながら、自分の腰に回されたジュリアの手をほどいた。
 そしてちょっとしたいたずら心で、眠ったジュリアの唇に自分の唇を重ねた。
 そのとき、不意に感じた視線に目を上げれば、眠っていたはずのクリスティーナと目が合う。
「内緒にしとけよ」
 了解とばかりに、クリスティーナは目を閉じた。


 1週間後に完成した壁画を前に、完治したジャスティスが立っていた。
「あんな犬ころまでうちの壁にいるのか」
 二階の深緑の壁に書かれていたのは、黄色いたんぽぽの咲き乱れた草原と、そこを走るクリスティー
ナとジュリアの背中だった。
 その絵を見ながら、ジャスティスが複雑な顔で顎に手を当てていた。
「あいつ……本気なのかな?」


 高原特有の肌を刺す冷たい空気が、車から降りた途端に二人を覆う。
「お父さんもどうしたんだろうね? 二人で牧場にでも遊びに行って来いなんて言うなんて」
 車を下りて早くも見つけた羊の群れに駆け寄っていくジュリアの言葉に、荷物を持ったフェイが苦い
笑みを浮かべる。
「変なところで鋭い奴だからな。………参った」
 ジュリアには聞かれたくない独り言を漏らす。
 大騒ぎをしながら足元の草を千切っては、寄ってくる羊たちに草を食べさせているジュリアを見なが
ら、自然と湧き上がった気持ちに、思わず眩暈を覚える。
 あれはジャスティスの娘のジュリアだぞ。
 自分もよく分かっているのだが、生まれてしまった感情をなかったことにすることはできなかった。
 ジャスティスと同い年の自分では、父親と言った方が正しい年の差なのだが……。
「フェイおじさん、早くおいでよ」
 そんなフェイの葛藤など知る由もないジュリアが、無邪気に叫ぶ。
「クリスティーナも早くおいで」
 ジュリアの声に、車から飛び降りた黒ラブが全力疾走していく。
 その走りっぷりに恐れをなした羊たちが慌てて逃げていく。
 クリスティーナがジュリアに抱きつき、草の上に押し倒す。
「ジャスティスの二の舞になるぞ」
 顔中を舐められて暴れているジュリアに近づき、クリスティーナを剥ぐようにしてどかす。
「クリスティーナとディープキスしちゃったよ」
 口を袖で拭うジュリアの手を取って起き上がらせる。
 だが、立ち上がったジュリアはグイっとフェイの腕を引いて耳元に口を寄せる。
「フェイおじさんとは、まだフレンチキスなのにね」
 フェイの動きが一瞬硬直する。
 数瞬の間に様々な思いが過ぎる。
 おまえとは子どもの頃から何度もしてるじゃないかと、笑って誤魔化す。
 そうだったか? と惚けてみせる。
 夢でも見たんじゃないのか? もしかして俺に惚れちゃってるとか? そりゃ、俺ほど頼れる男はい
ないからなぁと、シャレにしてしまう。あるいは、欲求不満かといじめてやる。 
 だがジュリアと目が合った瞬間には、そんなシュミレーションのどれよりも下手な反応で言ってしま
うのだった。
「起きてたのか?」
 しまったと思っても遅い。
 小悪魔のように笑って見せたジュリアが、足元に擦り寄っていたクリスティーナを抱き寄せる。
「クリスティーナが教えてくれた」
「………このおしゃべりめ」
 膝でクリスティーナ背中を押してやれば、何のことかしらとすっとぼけたような顔で振り返るのだか
ら、もう笑うしかない。
 先ほどまでジュリアに群がっていた羊の群れが、新たに現れたお客様にむかってメーメーと鳴きなが
ら移動をはじめていた。
 フェイとジュリアが見守る中で、若いカップルが手をつないで寄ってきた羊に歓声を上げ、笑顔を零
している。
 ジュリアがスッとフェイの手を握り、身をよせる。
「そんなことしても、親子にしか見えないと思うけど」
 絶望的に呟けば、ジュリアが下から睨みつけてくる。
「そんなに人の目が気になる?」
「………。そうだな。他人の目なんてクソ喰らえだ」
 ジュリアが大人びた笑みを浮かべる。そしてじっとフェイを見つめると言った。
「わたしは、他人よりも、フェイおじさんの気持ちが気になる」
「俺の?」
「わたしはローズマリーおばさんの身代わり?」
「………」
 その言葉に、フェイは違うという否定の言葉を出すことは出来なかった。
 ローズマリーへの気持ちがなくなるわけではない。やっと通じ合えたと思えた次の瞬間に断ち切られ
た希望に、喪失したものが大きすぎて、今だにその傷に捕らわれたままなのは事実なのだから。
「どうなんだろうな。俺にも分からない」
 年だけはとっても、心をコントロールするすべは不器用なままでしかない自分に、苦笑しか浮ばない。
 ただ昔と比べて逃げなくなっただけ進歩したのだと信じたいだけだった。
「ローズマリーとのことは、強烈すぎて、他のものと比較することはできないんだ。それに、言い訳み
たいだけど、全てのことは過去とのつながりの中で紡がれていく一本の糸みたいなものだから、今の気
持ちを、ローズマリーを抜きに考えることはできない。ジュリアがローズマリーと似ているから好きな
のか、生きることに真っ直ぐだから、その生きる力に惹かれるのか、それともあまりに小さいときから
見てきたからこそ、手離しがたいくらいに大切なのか」
 搾り出すように感じたままの気持ちを言葉にすれば、それが素直なところであった。
 ジュリアがフェイに背を向ける。
 その視線の先で、クリスティーナが走り回れる緑の草原を、解放された本能のままに走り回っていた。
 そのあるべき姿は、なによりも美しかった。
 ジュリアの背中が震えていた。
「……ジュリア、俺はこんなで気の利いたことなんて一つも言えないけど」
 顔を両手で覆ったジュリアの肩に手を置き、フェイが言った。そして顔を覗き込んだ。
 だがその顔を見た瞬間、ふたたびフェイが凍った。
 ジュリアは腹を抱えて笑っているのだ。
 震えていたのは涙を堪えていたからではない。笑いを堪えていたのだ。
 瞬間、フェイの顔がムっとしたものに変化する。
「なにを人が真面目に語っていれば、笑ってやがる」
「だって」
 そう言いながら、なんとか笑いをおさめたジュリアがポケットに手を突っ込んで憮然と立つフェイの
腕を取る。
「ちゃんとフェイおじさんはわたしに恋してくれてるんだ」
 その直接的な言葉に、なぜか顔が赤くなっていく。
 その頬をつついて、ジュリアが笑う。
「フェイ、かわいい」
「大人をからかうな」
「恋に不器用な大人ね」
 ジュリアがフェイを見つめ、怒り出しそうな顔に悲鳴を上げて逃げていってみせる。
 青空と緑の稜線の向こうから、黒いラブラドールが駆けてくる。
 白いスカートをはいたジュリアが、クリスティーナに向って両手を広げている。
 一瞬その姿が白いウエディングドレスに見え、自分の先走った妄想に自分で面食らって笑う。
「ジャスティスをお義父さんなんて呼べないわな」
 クリスティーナを抱きとめたジュリアがフェイに向って叫ぶ。
「わたしも好きだよ。だから付き合ってあげる」
「……あげるかよ」
 思わず肩から力が抜ける。
 クリスティーナが再びジュリアの口をペロンと舐め上げる。
 自分がクリスティーナ以上の地位になるのはいつのことだろう。
 そんな気弱な思いを抱きながら、フェイは春のうららかな陽気の中で歩いていくのであった。



                             〈了〉


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